去り行く者と残された者・・・・ Depeche Modeの軌跡2

とある会社での話、バリバリの営業マンである彼はいくつもの得意先を持ち、かつ上得意と呼ばれる顧客がそのほとんどあった。営業の手腕は彼独特のもので顧客の所へ同席した同僚はその鮮やかな営業トークと積極的なアピールには舌をまいた。同僚たちはこんな彼の手腕は生まれながらの天性のものでほかの人にはなかなかまねのができず、自他ともにその会社の彼のいる部署は彼でもっているとものと思われるようになっていった。実際、全体の売上比でも彼のしめる割合は非常に高かった。
そんな彼がいきなり退社した。会社の中はまるで蜂の巣を突付いたような騒ぎとなった・・・・

当りまえだが普通アルバムをリリースをすれば次はツアーが待っている。ツアーはコンサート収益をあげる事もできるし、さらにはアルバムのプロモーションも兼ねている重要なドル箱(^^ゞ、いや活動のひとつだ。スタジオだけが唯一の活動の場だというのはスタジオミュージシャンだけだ。拒否は許されない。というかどちらかというと「ツアーは好きだがアルバム製作は退屈だ」というミュージシャンがほとんどなのだ。がやはり変り者が多いミュージシャンの中でもさらに変り者がいて、ツアーを拒否する奴がいた。もうほとんど話の流れからお判りのとおりDepeche Modeのビンセント・クラークである。ファーストアルバムはほとんど彼がつくり、実質的な中心メンバーとされていた奴があっさりツアーを理由にやめてしまい、どこの馬の骨とも知れないおねーちゃんを連れてきてYAZOOというしらばっくれた名前をつけて活動しだした。

とある会社では彼が抜けたあとを同僚たちが必死になって彼が担当していた得意先を回り何とか穴埋めをしようと駆けずり回った。当初はほとんどそっぽを向かれていたが、彼らも必死だ。案外人間必死になるとだめだと思われたものも良いほうに向いてくる。その直向さが案外得意先には好意的に受止められて1年ほどすると売上は以前と変わらなくなり、さらにはそれ以上になる時もあった。

Depeche ModeがセカンドアルバムのA Broken Frameを発売したのは奇しくもビンセント・クラークのYAZOOがファーストアルバムを発表した時期に近かった。さらには日本のメディアは同時期にアルバムを発表したデイブ・スチワートとアン・レノックスのEURYTHMICSとを対比させこぞってYAZOOを取上げたため、このセカンドアルバムはまったく注目されなかった。そして日本ではDepeche Modeは以後もほとんどマスコミを賑わすことはなかったが、あくまでこの現象は日本だけの現象で本国イギリス以外のヨーロッパで、さらにはオーストラリアでは大ブレイクしてファーストアルバム以上のセールスを記録することとなる。
オープニングナンバーのLeave In Silenceはいきなり低い声でのハミングとバスドラの4分打ちから始まる。そしてかなり長いブラス系の音にストリングスのエンベローブをかけたよな音でビンセント・クラークがいた頃には考えられないようなアレンジのソロが入る。さらには鐘のような深くモジュレーションがかかったモチーフとも言える音が随所に使われる。ビンセント・クラークが得意とする派手なシーケンスパターンや軽くポップなリフも全く影をひそめ、オーソドックスなレガシーとも言えるYAMAHAのCPに近い音色の実にシンプルきわまりないアレンジのコードワークで今後彼らの大きな特徴となるメロディアスなヴォーカルのメロディーを効果的に演出している。頭と最後の長いプロフェットのソロのおかげで曲は8分にも及ぶのは彼らの新たな心境と決意ともとれる。

会社を辞めた彼には打算があり、そのは必然的なものでもあった。これは日本の企業の中では良くあることで、自分の売上とサラリーにアンバランスを感じてしまうことである。彼がいくらかんばって何千万、何億と売上をのばしても自分自身に支払われるサラリーは年間数百万の単位だ。通常はこの金額に矛盾を感じるようになる。そして起こす行動はただひとつ自立だ。これは日本型の企業戦士が陥りやすい典型的なパターンで必然的とも言える。でも、自立してすぐ気がつく事がある。それは会社という大きな傘だ。会社という大きな傘がなくなった者には容赦なく世間の風雨が降りそそぐ。今度は資金面のやりくり、事務手続きなどすべて自分で行わなければならない。さらに大きな問題は所属していた会社を取引先は信用して彼と取引を行ってくれていたが、新たに自立したものには基本的に担当者同士がいくら顔見知りであろうが会社とすれば信用はゼロ、再び1から事をはじめなければならない。自立を目指したものは何か幸運がない限り体力は続かない。

ビンセント・クラークのYAZOOはファーストアルバムこそ異色のボーカルのアリソン・モイエの起用により話題に上り本国イギリスやアメリカでも良好なセールスを記録した。彼独特の明るく軽いPOPなシーケンスパターンとリフレインに、この手のジャンルでは考えもつかなかったソウル唱者のように喉で発声する粘っこいボーカルが見事にはまり評論家にも上々の評価を得た。ツアーを行わない彼らはすぐに次のアルバムを制作するようにレコード会社からは依頼を受ける事となる。だかこうしているうちにも最新の音楽シーン、特にエレクトリックポップと呼ばれていたジャンルは動きが速い、ほんの数ヶ月前のものでもすぐに陳腐化してしまうほどのスピードのはやさである。
インストルメントもプロフェット5、やオーバーハイムのOB-8の代わりにスタジオにはPPGやYAMAHAのDX-7といった新たなデジタル音源をもつ刺激的な音のインストルメントが台頭してきた。これらの機材は今までのアレンジではその音色を生かすことができず新たなアレンジを必要とした。デジタル音源は単独では非常に存在感のある刺激的な音だが、いざアンサンブルでほかのアナログ的な楽器と一緒にすると核となる倍音成分が少なく、広く倍音が分布しているためすぐほかの音に覆い隠されてしまう厄介な特性があった。デジタル音源機器を有効に使うにはそれに見合うディレイ、コーラス、リバーブなどの空間系エフェクターを使いこなすエンジニアリング能力とアレンジが必要になってきた。
YAZOOのセカンドアルバムは基本的にはファーストの延長上にあった。だがそのサウンドはもう時代は求めていなかった。やはり一人で行うことができるアレンジの限界はここまでかと思われる。曲を構成にはもちろんコード進行は現代においては中核をなすものだが、それをビンセント・クラークの場合はシーケンスパターンやべースラインでコード進行を構成していた。が、和音でコードを表現することを極力排除していたこのアレンジは軽いPOP感を出すには実に効果的ではあったがワンパターンに陥りやすかった。さらに問題点はこの頃、台頭してきたデジタル音源の機器に対応ができなかった事だ。これはYAZOO、しいて言うならビンセント・クラークには命取りになり、彼は音楽シーンの表舞台から消え去る運命をたどらざるをえなかった。逆に冴えない音楽活動を行っていたアリソン・モイエはYAZOOの名を借りて一気に名を上げ活動の場を移していったのは何とも皮肉なことであろうか。

[2002年07月26日(金)]